元祖yajiri

元祖と本家で係争中

Gレコの……Gレコの話をさせてください……

富野監督はGのレコンギスタでやりたかったことは「脱ガンダム」ということは度々インタビューで答えているが、では脱ガンダムとは何か。そのひとつとして「ロボットアニメが持つ勧善懲悪を捨てる」ことが挙げられる。現実の世界では明確に悪い人がいて、その人を退陣に追いやったり、責め立てれば終わりということはない。むしろ関係がこじれて悪くなるばかりだ。しかしロボットアニメの持つ単純な勧善懲悪は、そういうことを推し進めてしまっていた。それをやめる。つまり「悪い奴をやっつけてめでたしめでたし」をしない、ということだ。

過去にそれを目指した作品は数多くあり、今までのガンダム作品も単純な勧善懲悪に収まらない物が作られている。だが基本的には味方と敵がいて、敵の親玉を倒すことを目的として話は進む。「正義の反対はまた別の正義」という言葉があるように、相手側の正義との齟齬に悩んだり、あるいは味方側でも酷いことをしている、という表現を挟んだり、実は世界を守っていたのは敵側だったなどのタネ明かしをしたりして、「悪い奴をやっつけてめでたしめでたし」で終わらない話になっている。

だがこれでは単純な勧善懲悪になっていないだけで、「悪い奴をやっつける」ということは捨てきれていない。富野監督が狙ったのはこの「悪い奴をやっつける」こと自体からの脱却であり、それをしないための構造が、あの説明しない詰め込みまくった訳のわからなさだ。

実際にGレコを最終話まで見ると、空からガンダムが降ってきて、訳のわからないうちにメガファウナに乗り、訳のわからないうちに宇宙へ行き、訳のわからないうちに地球に戻ってきて戦争が終わる。ベルリが移動する毎に戦闘は行われてきたが、戦争というほどではなく、いつ戦争が始まったのかも定かではない。だがいつの間にか戦争は始まり、そして終わっている。

丁寧に1話1話解釈しながら見れば、上層部の動き、権力者の欲望、政治的闘争などを把握することは可能かもしれない。だがベルリからの視点で物語を見ると、それらは雰囲気を感じられるに過ぎず、ただただ状況に流され、ベストを尽くそうとする主人公がいるだけだ。

そしてベルリの前に現れる人々も描写を省かれている。本来であれば彼らは正義を持ち、それを語り、ベルリに問いかけることもできただろう。しかし現れては問いかける間もなく、自身の行動を示しては消えていく。そこに何がしかの想いを垣間見るだけだ。

またベルリの戦争はやられたからやりかえすという動きはあるが、親しい人を守るため、あるいは争いを止めるための戦闘が主だった。正義のため、つまり特別に信念を持ち、それを拡大するために他者を害することはなかったように記憶している。そしてベルリの前での人死には、カーヒルやデレンセンを筆頭に、出会い頭の事故のような、感情をぶつける間もなく、反射的に引いてしまった引き金によるものばかりだ。「悪い奴をやっつける」ことから脱却するため、正義も悪も語られることのないよう状況は説明されず、混乱するようになっていた。

そうした中で迎えた最後の戦い。極力「悪い奴」が現れないよう描かれてきた物語であるが、どうしても悪人らしき人物がいる。それがクンパ大佐だ。彼の死には誰も注意を払わず、正に"事故のように"亡くなるが、それは彼だけは悪となりえるからで、作劇上、どうしても事故死してもらう必要があったのだ。

そして戦後については公式サイトのインタビューにもあるよう、戦争があるから戦っただけで遺恨はない、あったとしてもないように振る舞えるだけの分別のある世界となったわけだ。

 

ちなみに「悪い奴をやっつける」ことを捨てると、ロボットアニメは快楽の柱を一本失うことになる。そこでGレコでは物語としての悪を倒すことを排した代わりに、目の前の戦闘は大変に面白くなるように作られている。「悪い奴をやっつける」気持ちよさの代わりに、勝負に勝つことを魅力的に描いているのだ。そこには本当に砂粒ほどの差しかないが、どうにか危ういバランスだけれども、Gレコの評価の割れっぷりを見ると、一応の成功はしたようだ。これが上手くいってなければ否定意見ばかりになっていただろう。

またGレコでは身体性への注目度が高い。

例えば排便の話や、シャワーや着替えの気持ちよさ。あるいは記憶が戻る前のラライヤの風や太陽の光への反応、2クールアニメにしては多い食事シーン。水と空気の大切さ。そして最終話、大地に立つベルリ。体を通した経験、経験を伴った気持ちよさ、そういったものを礼賛している。

えーっと、あとは……、過去の富野作品と比較することで似ている部分が多く出てくるんだけど、それは当然で、過去作から間借りすることでリアルなハリボテを作ってるだけで、細かい背景を実は考えてないとか、富野の頭の中にはベルリの通った道以外は存在してないんだけど、でも世界って実在を与えられた時点ですでに広がりを持っていて、考えてない部分も存在しているとか、現実の世界の「知らない世界も自分が知らないだけで存在している」に通じるところがある投げ捨て方をしているとか、そういう妄想をしていたら金曜日が溶けた。